玄米食とは、古代人が食べていたコメの様に、籾殻を剥がし、更に玄米粒の表面の蝋質の表皮のみを取り除き、栄養素がほとんど元のままで、しかも白米のご飯の様なふっくらと柔らかく食べられるし、消化吸収も良いコメを指すのである。
もっと分かり良く、栗と比べて説明をすると、栗のイガはコメの籾殻に匹敵し、栗のイガの内側の硬い鬼皮は、玄米の蝋質の表皮に匹敵するのである。
栗の実。外側のイガと、内側の鬼皮が見えている(写真はイメージです)
と言うと栗の鬼皮は硬くて厚みがあるのに対し、玄米の表皮はそれほど硬くなく、また厚みも薄いじゃないか、それがどうして匹敵するのか、とお叱りを受けそうだが、どちらも栗は栗の木の種子として、またコメは稲の種子として、それらの種子が一時的な雨などによって吸水し、不適切な状況で発芽をすることになれば、水分供給が無くなると枯れてしまうから、そのような事にならないように、種子が簡単に吸水しないような、それらの種子の外装は重要な防水の役目を果たすためのものである。
従って栗は高い木の上から落下するのと、その時はイガは既に剥けてしまっているので、落下時の衝撃に耐える役目も兼ねて頑丈に硬く厚くして、防水効果もある鬼皮になり、一方の稲の種子のコメは、背が低い位置から落下するのと、籾殻で保護されているから、落下時に大した衝撃も受けないので玄米の表皮は薄くてよいが、その薄さであれば防水が出来ないから、表皮を蝋質にて仕上げているとの違いだけであって、いずれも防水対策をしているのである。
従って我々は栗を食べる時はイガは勿論のこと、必ずその内側の硬い鬼皮を剥いで食べるように、コメも籾殻だけではなく、その内側の玄米の蝋質の表皮も剥いで食べるのが本当の食べ方であるし、古代人もそのようにして食べていたのである。
近代の人間は、一般的に栗は鬼皮の内側の渋皮まで、コメは表皮の内側の糠層まで、それぞれ除去して食べているが、栄養的にはそれらを付いたまま食する方が良いのである。
ちなみに、古代人は意識をして蝋質の表皮を除去していたのでは無いのだろうが、実際に臼と杵で脱ぷすると、必然的に蝋質の表皮も除去出来ていたのは、神様の人間に対する温かいご配慮だったのかと私は思っている。
従って、籾殻を剥いだだけの玄米を食べるとすると、硬い鬼皮が付いたままの栗を食べるのと同じ無茶な食べ方になることがお分かり頂けたと思う。そのようなものを食べたのでは胃腸の弱い人はお腹を壊すのは当然であるし、それを高圧釜などで炊き方を工夫したり、まずくて硬いのを我慢して食べられている方々のご努力には感服するが、でも私に言わしめれば、それは『邪道』になるだろう。我慢して食べたとしても、いくら栄養豊富な玄米でも、消化吸収されなければ無意味でしかないだろう。
「目からウロコ『コメ』ってこんなに誤解されていたんだ!」――その19に続きます
<文>
東洋ライス株式会社 代表取締役社長
東京農業大学客員教授
雜賀慶二さん