お米の単位「一合」や「一升」に隠された意味?-「100万石」は「100万人を養えるお米」だった!-

今回は日本の歴史とお米の関わりについてのお話です。なかでも今回は、お米の単位のお話。なぜお米を量る時、今も「1合」や「1升」といった単位が使われるのでしょうか? この不思議をひもといていくと、私たちのご先祖様がどんな生活を送ってきたのか、その横顔が見えてきます。


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「1石」はお風呂一杯分のお米

単位の話の前に、少し小咄(こばなし)を。豊臣秀吉がまだ織田家の下級武士、木下藤吉郎だった頃、彼は仲間たちと夢を語り合う機会がありました。他の足軽たちは「俺は一国一城の主になりたい」などと大きな話をする中、秀吉だけは「今は100石の身分だから次は200石ほしい」と言います。皆は「何と小さな」と笑いましたが、秀吉はこう言い返しました。

「わしの望みは忠勤を励めば叶えられる。高望みではなく手の届く望みなのだ。おぬしらはそうやって、いつまでも手の届かぬ夢を語っておればよい」

後世の作り話かも知れませんが、夢を叶える人と叶えられない人の違いを鮮やかに表現する逸話のように感じます。

さて、ではこの「100石」とはどれくらいの量なのでしょうか?

これは「100人を1年間養える量のお米」を指します。

古来、単位は国によって、いえ、地域によってもバラバラでした。現在、例えば1メートルは「光が1秒の299792458分の1の時間に真空中を伝わる長さ」などと定義されていますが、これは正確性を突き詰めてこうなったもの。昔は人間の体を中心に考えられていました。西洋の「フィート」は元々脚のつま先からかかとまでの長さで、現在は30.48センチとされています。

日本などの東アジアで使われてきた「尺」は、漢字の成り立ちも手の指と指を広げた形をかたどったもので、30.3センチを示しています。ちなみに「尋(ひろ)」は大人が両腕を一杯に「ひろ」げた長さで、約1.818メートルを示します。名前として使われる「千尋」さんは、「とても長い、深い」という素晴らしい意味を持ちますが、あえて正確に言うと「1818メートルさん」ということになります。

同じようにお米の単位も、人間の体にあわせて生まれてきました。

先ほどお伝えしたように、1石は1人が1年間で食べる量を示します。その10分の1が「1斗」、その10分の1が「1升」、その10分の1が「1合」。すなわち1石とはお米1000合を表します。

ではこれを計算してみましょう。1000合を1年365日で割ると、昔の人は1日に約2.739合――3合弱のお米を食べていたことになります。おかずが少なく、パンもなかった昔の話、納得できる数字です。

ではこれ、どれくらいの量なのでしょう? 日本では、明治時代に西洋の単位と江戸時代の単位が揃えられ、「1合」は約0.18039リットル(180.39ミリリットル)となりました。これは1合のカップちょうど。ごはんを炊いたことがあれば容易に想像がつく量です。

そして、この上の「1升」にも実感できるものがあります。1升は1合の10倍、約1.8リットル、1800ml入る1升ビンをイメージしてもらえれば想像がつきます。その上の「1斗」は18リットル、これは1斗缶をイメージしていただければわかりやすいでしょう。あの1斗缶はお米100合が入るんですね。

では「1石」は? これはお風呂に例えると実感しやすいかもしれません。家庭のお風呂は、だいたい満杯で200~250リットルのお湯が入ります。とすると、そこに7~9分目くらいのお湯が入っていれば「1石」くらいになります。

「1反」はお米1石が収穫できる土地。では「1坪」は?

重さにも換算してみましょう。歴史もののドラマで、俵(たわら)が積み上げられているシーンを見たことがある方も多いでしょう。明治時代の末に、1俵は4斗=400合と定義されました。1合のお米が約150グラムなので、1俵は約60キログラムとなります。

昔は女性も俵をかついだと言われますが、これは約60キログラムの荷物をかついで運んだ、という意味になります。ちなみに1升は1.5キログラム、1斗は15キログラム、1石は150キログラムです。お米はなぜか、炊く時は「合」で、買う時は「キログラム」が使われがちです。そんなわけで換算してみると、10キログラムのお米は、66.67合となります。1日2合食べて1カ月くらいの量です。

秋田県仙南村、昭和30年ごろ(出典:http://www.pref.akita.jp/fpd/towns/sennan/tougenkyou.htm

少しお遊びで、粒も計算してみましょう。ざっくり、1グラム=お米50粒です。とすると1合(150グラム)=お米7500粒、1石(150キログラム)=お米750万粒となります。

ちなみにお米は土地の単位にも影響を与えています。実を言うと「1反」(991.74平方メートル=1辺が約31.5メートルの正方形の土地を想像して下さい)は、1石の米を収穫できる土地の面積を示しているんです。そして戦国時代まで、1反の360分の1、すなわち1日分のお米が収穫できる土地が「1坪」でした。

戦国時代まで、と書いたのはわけがあります。天下が統一されると、年貢を全国で公平にとらなければ、ということで、かなり適当だったこれらの単位を統一する動きが始まったのですね。

これは江戸期の「検知の図」、今で言う税務調査ですね。(『徳川幕府県治要略』より)

この時に1反は300坪となり、10反=1町、などと定められました。そして、この単位の統一と全国の測量を実施したのが豊臣秀吉、すなわち100石を200石にと着実に成長を重ね、大きな夢を現実にした人物でした。この時の測量は「太閤検地」と呼ばれています。

そして、こんな数字をつぶさに見ていくと、当時の人と社会の姿も見えてくるのです。

秀吉が母からもらった餞別は「お米300キログラム分」

資料によって数字は異なりますが、太閤検地の結果、当時の全国の総石高は約1800万石だったと言われています。とすると、当時の人口は1800万人程度だったとも推測できます。これが江戸前期・寛永期の検地ではおよそ2100万石になり、幕末に近い時期には約3200万石になっていますので、同じように人口も増えたのでしょう。

さらに、この「石高」により出兵能力も推測できます。豊臣秀吉の朝鮮出兵についての論文によれば、朝鮮に近い九州、中国地方、四国の大名は100石あたり4~5人、それ以外の大名は100石あたり3人の将兵を出陣させています。総人口の中には、田畑を耕す農家の方もいれば、武士や足軽の妻子もいます。「人口100人あたり将兵が3人」は想像がつきやすい数字です。これに従えば「加賀100万石は3万人の将兵を出兵できる」「戦国時代末期には日本の総人口約1800万人に対し54万人程度の将兵がいたはず」とも推測できます。

そしてこの数字からは昔の人と現代人の違いも見えてきます。

農林水産省のデータによれば「国民1人の1年あたりの米の消費量は、1962(昭和37)年度の118.3kgピークに一貫して減少傾向にあります」とのこと。1俵が60キログラムだから、昭和37年の日本人は1年に約2俵、0.8石の米を食べていたことになります。

1年に食べる量が1石を下回るというのは、江戸期に比べパンや麺で麦を食べる機会も増え、同時に様々なおかずも充実している、ということなのでしょう。そして農林水産省のデータは「1990(平成2)年度には70.0kg、2005(平成17)年度には61.4kg、2018(平成30)年度には53.5gまで減少しています」と続きます。

確かにパンもおいしいけれど、ついに1俵を切ってしまったというのは「こめペディア」としては少し悲しいことかもしれません。しかしよいデータもあります。

昔は、1反から収穫できるお米の量が1石(約150キログラム)だったと書きました。しかし明治時代には200~250キログラム、大正から昭和の初めには300キログラム、昭和後期から平成、令和にかけ、500キログラム~530キログラムに増えています。これは日本人が絶えず農業を革新し続けてきた証でしょう。

参考:農林水産省「令和2年産水陸稲の収穫量」

そして最後に、お米をお金に換算すると何が見えてくるでしょうか?

戦国時代のお米の価値を調べると、筆者は「2石=1貫文」くらいと感じます(その年の収穫量にもよりますし、地域差もあるので参考値です)。ちなみに「1貫文」は1文の銅銭1000枚を「貫」いてまとめたもので、NHKの「麒麟がくる」のサイトによれば約15万円と計算できるそうです。

検算しても、わりと正確な数字です。

現在、スーパーでおいしいお米を買おうと思うと、10キログラムが5000円程度します。すなわちお米1石、150キログラム分買おうと思うと7万5000円になります。とすると、私が調べた「お米300キログラム(2石)=現在の15万円(1貫文)」はピッタリの数字です。

さて、この数字を元にもう一度、天下人の足跡を辿りましょう。

『太閤記』には、秀吉が養父との折り合いが悪く家出する話が描かれています。その際、母からもらった餞別が銭1貫文とあります。のちの天下人は、家出に際し母親から約15万円の餞別をもらったことになります。

そして彼は、冒頭で書いた木下藤吉郎の時代に100石とりの身分になっています。すなわち、15万円持って家出した人物が信長の元で年収750万円に出世し、年収1500万円を目指した、となります。急にベンチャー企業の若手のような雰囲気になって身近に感じませんか?

さらに、お米とは関係ない話も少々。

戦国時代の当時、暦(こよみ)は現在の太陽暦でなく、月の満ち欠けを基準にした「太陰暦(たいいんれき)」を使っていました。太陰暦は、新月(月が出ていない日)を含む日を1日とし、14~16日に満月を迎え、再び新月になると1日に戻る、という暦です。今、8「月」、9「月」……などと呼ぶのは、昔は月の満ち欠けが基準だったからなんですね。

そして、明智光秀が織田信長を襲った『本能寺の変』は、旧暦の6月2日の出来事です。すなわち、ほぼ新月の夜だったとわかります。光秀は信長を討つ前「時は今」で始まる句を詠んでいます。月が出ていない晩だったことも、光秀が「時は今」と考えるきっかけになったのかもしれません。

余談が過ぎました。お米に限らず、単位の歴史を知ると、昔の人の面影が少しだけ鮮明に感じられますね。