【お米と道具】「石抜機」開発物語――昔のお米は「かむと歯が欠けた」!?

精米機の取材で東洋ライスの工場に行くと、大根をおろす時に使う「おろしがね」を大きくしたような金属板が置かれていました。これが何かを聞くと、案内してくれた社員さんが「石抜機(いしぬきき)です、当社の原点となった機械なんですよ」と嬉しそうに話します。そして、知られざる事実を聞きました。彼は「これが発明されるまで、お米には石が混ざっているのが当たり前だったんです」と言うのです。


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考えれば何とかなるもんや

歯を失うと人体は想像以上に大きなダメージを受けます。歯を食いしばれず力が出せなくなったり、頭の重さをアゴが正しく受け止められず骨が歪んだり……。65歳以上の男女4000人を対象に認知症の発症と歯の本数の関係を調べると、歯が少なく義歯もつけていない人は、歯が20本以上残っている人に比べ認知症になるリスクが1.9倍にもなる、というデータが存在するほどです。

そんな大切な歯が、お米で欠けてしまうことがあったようなのです。東洋ライスの社員の方が話します。

「当社には精米する前のお米が袋に入って運ばれてきます。これには驚くくらいいろんなものが混ざっているんです。『カラー選別機』に入れると、何かのコードとか、ヒモとか、布きれとか、いろんなものが出てきます」

雜賀慶二社長が話を継ぎます。

「なかでも、昔は石がやっかいだったんです。もちろん取り除いて食べていたんですが、たまたまお米に似た色、似た大きさの石が混ざると、気付かずご飯を炊いてしまうんです。無防備に頬張るとガリッ! とハンマーで頭をたたかれるような衝撃があって、歯が欠けてしまうこともありました」

雜賀社長は戦前の1934年生まれ。彼が子どもの頃は、たまに石が混ざっているのが「当たり前」だったのです。少し余談ですが、雜賀氏の子供時代の話がとても興味深いものでした。

「戦後の数年は食べ物がなく、毎日おなかをすかせ、食べ物のことばかり考えていました。ものもありませんでした。今はスーパーで何か買えば立派なトレーに載っていて、使い終えると、みんな捨ててしまいます。昔なら何度でも洗って使ったものです。私は、こんな世の中が怖いと感じます。人類はこんなことを続けていいのでしょうか……」

雜賀社長はこうも語ります。

「ただ、この頃の経験から私は“工夫”を学びました。人はいろんなものが足りないから考えるんでしょう。当時、よく動物を捕まえました。例えばウナギです。竹を切って先が行き止まりになった筒を作り、その奥にエサになるタニシを置いて川に入れておくと、たまにウナギが捕れました。入るぶんにはスルスルッと入れますが、一度入ったらもう出られないわけです。次第に工夫もするようになります。タニシの匂いがするからウナギが寄ってくるわけですから、竹筒の中に小部屋をつくって、そこにタニシを入れて……と試すと、もっと捕れるようになりましたよ」

この時、雜賀社長は重要なことを学んだと言います。

「考えれば何とかなりそうなことは、考えれば何とかなるもんや、と思ったんです」

「1年ほど研究に没頭しました」

雜賀社長の実家は、和歌山市で精米機の修理販売業を営んでいました。工夫が好きだった彼は、すぐ機械仕掛けに興味を持ちました。家業を手伝ううちに雜賀氏は精米機の内部にまで精通し「直せない機械はない」と思うほどに腕を上げます。

昭和28年1月、当時「精米機の名医」と言われていた頃

そして20代半ば、石抜機開発のきっかけが訪れました。

「お米屋さんがお客さんから“米に石が入っていた! 歯が欠けた!”とクレームを受け困っていたんです。私は精米機の修理屋だったので、精米機を製造するメーカーに相談してみました。ところがメーカーは“そんなもんや”と相手にしてくれません。今まで誰もつくれなかったんだからできるわけがない、と決めつけていたんです」

それまで、石粒は人の目で取り除いていました。ガラスの上に米を薄くまき、下から電灯で照らして見つけるのです。それでも石が入っていたなら「仕方ない」、それが世の中の常識でもありました。しかし雜賀社長にとって「考えれば何とかなりそうなことは、何とかなる」のです。

筆者が東洋ライスの工場で見た石抜機内部の金属板「撰穀板」

雜賀氏が着目したのは、米と石の重さの違いでした。例えば紙の箱にお米と石を入れ、下からポンポンと叩けば? 重さの違いで、跳ねる高さは変わるはずです。雜賀氏は、仕事が終わった後、自分で金属を加工しながらこれを機械にしました。まず、大根おろしをつくる時に使うおろしがねのような金属の板(撰穀板・写真)を斜めに置き、石と米を乗せます。そして下から風を送りつつ揺さぶると、比重が軽く摩擦係数の小さいコメだけがふわっと浮き、石とわかれていく、というもの。既にあるものを説明することは簡単ですが、仕組みは複雑で、雜賀社長は「1年ほど、夜は研究に没頭していました」と話します。

『儲けてやろう』と思って何かを始めない

こうしてできたのが石抜機でした。日本人はこの時まで、いつ「ガリッ」「ジャリッ」となるかわからないご飯を食べていたのですが、雜賀氏の発明により、その危険がなくなったのです。

「クレームを受けて困っていたお米屋さんに見せると、その瞬間、目の色が変わったことを覚えています。その後、石抜機は大ヒットして、日本中のお米屋さんに普及していきました。これが、現在の東洋ライスを立ち上げるきっかけになったんですね」

昭和36年3月、「石抜き機」発表。あっという間に全国へ普及した

しかも驚くべき事に、この仕組みは「現役」なのです。その後、色がついた何かや、形が違う異物を取り除く選別機は自動化され、進化していきました。しかし、石を取り除くなら、この「石抜機」が最も正確で効率がよいのです。

「実は私、この件に限らず『儲けてやろう』と思って何かを始めたことが一度もありません。病弱だったからか、いつも誰かに喜んでもらいたいと思っているんです。そんな性格だからこそ『これを何とかしたい』『あれも何とかしなければ』とやるべきことが次々浮かんでくるんです。その後『BG無洗米』を発明したのも、最初は『海や川の水質汚染を何とかしなくては』という思いでした」

実を言うと雜賀社長は石抜機を開発しただけでなく、その後、無洗米も開発するのです。

このお話は、また次回の原稿で詳しく報じます。

(取材/文 夏目幸明)